以前読んだ『神話の力』(早川書房)という本を読み返しているところなんですけど、そこで面白い、というか、癒しを受ける文章がありまして、それに触れてみることにいたします。この本は、ビル・モイヤーズというジャーナリストと、ジョーゼフキャンベルという神話学者のダイアローグでして、神話が人の人生においてどんな意味があるのだろうか?というようなことがテーマの本です。NHK教育でも、TV番組として放送されたと思います。モイヤーズはこの他、『こころと治癒力』(草思社)という本のインタビュアー(こちらもNHK教育で放送されてたと思う)もやってます。
んで、本題。『神話の力』のP286-288あたりに、以下のようなことばを見つけまして、いろいろと考えさせられたのでした。
●「もし、安らぎを得たかったら、苦しみを否定せず、それそのものが人生だと認めてはどうだろうか。苦しみを通してこそ、いまのような立派な人間になったのだから」
これは、キャンベルが、「若いときに遭った災難がもとで長年ひどい肉体的苦痛を受けていた」女性に対し、語ったという助言の内容です。
キャンベル自身は、「歯痛くらいしか知らぬ自分にこんな偉そうなことが言えるかどうか…」という内心ヒヤヒヤする気持ちで述べたのだそうですが、その女性は、その場で、「苦しみこそ、自分の教師なのだ」と肯定的に受けとめることで、即座に回心したそうです。
僕の場合、一生もんの病気抱えているから、「病気と闘う」という気持ちはあまりしません。だって、病気を闘い倒すということは、自分自身の生命 の根幹をも傷つけかねないということであるから。だから、上記の話はとっても分かる。遺伝病のおかげで、いまの自分があるのだと思う。障害を負ったからといって、決して不幸ではないのだ。
●「自分の運命を愛したまえ。それが、自分の人生なんだ」
ニーチェのことばに「アモールファティ〔運命愛〕」ということばがあるそうで、「人生のたった一つの要素でも否定するなら、全部をばらばらにしてしまう、逆に、状況が困難であればあるほど、それを克服する人間像は偉大となる」という考えで、いわば、苦しみが人間を成長させるというわけです。
どんな人生になろうと、苦しみはあると思うのです。逃げようとしても、逃げられるものではない。だからいま受けてる苦しみは苦しみとして、いさぎよくそれを「運命」として引き受けることが、逆に人生をより豊かにするのかもしれないな、と思うのです。
つよく生きていくということは、「苦しみに打ち克つ」というよりは、
それを呑み込んで自分自身の力の源泉にしていけるか、ということなのでしょう。
●「すべては、神様がやったことだ」
「そうじゃない。きみが自分でやったことなんだ。神さまはきみの中にいる。
きみ自身が、きみの創造主なのだ。もしきみが自分のうちの苦しみの発生源を探しあてたら、きみはそれと共に生き、それを肯定し、それを楽しむことさえできるかもしれない。きみの人生として。」
これは、キャンベルの友人とキャンベルとの対話だそうです。苦しみを引き受けて、生きていくことは、決して挫折なのではなく、試練に立ち向かう尊い行為なのだと思います。
私も、自分の障害を得た事実を「肯定し、それを楽しむ」ようになれたらいいな・・・。しかーし、まだまだ道は遠い・・・(^_^;)。
実を言うと、本当は、自分に対する信頼というのは絶大だったりするのだけど、でも人に対するときになると、少し痿縮してしまう。
なんというか、私の場合、泥々したものが多くて、できれば、スマートにいきたいと思っても、あっちこっちで、衝突してしまうんです(;_;)ウルウル。
頑張りすぎたり、思いが強すぎたり、というわけで、あちこちで迷惑かけ通し(^_^;)。でも、これも人生なんだって、不器用な自分も認めてやりたい…。
人間の生きる価値というのは、どんなに苦しい、何もできないような状態であろうと、息をつづけるだけでも、それ自体、意味がある(態度価値)、これが最も本質的な「生きる価値」だというんです。(『死と愛』フランクル(みすず書房P53-54))
「苦しみ」を負うことは、決して人生の否定なのではなく、むしろ、それをどのように受けとめていくかということが、人間の人間らしさを作り出すのだろう、と思うのです。
「一切皆苦」、「全ては苦しみである」 仏教のことばです。
この考えだけだと、なんとなく「世の無常」への嘆きのように思われますが、こうした考えと同時に、仏教では「菩薩」という考えがあるんです。
菩薩は、自身は、その気になれば成仏できるという。成仏一歩手前にありながら、成仏することを敢えて拒否し、自分の積んだ、善徳を、苦しみの中にある衆生(一切有情、生きとし生けるもの)のために、分け与える、
(廻向(エコウ)といいます)。このようにして、、全ての衆生を救い取るまで、自身は成仏しない、と決心した人のことを言います。
因みに、すべての衆生は菩薩である、というのが大乗仏教です。その考えが発展していくと逆説的ですが、誰も、成仏しない、これが最大の救済だというんですね。全ての人が、助け合い支え合う。どちらが偉くて、どちらが賎しいということがない。自分のみが助かることだけを求めるのではなく、人の苦しみを自分の苦しみとして受けとめ、引き受けていく。人間には、本来こうしたこころを求めていることがあると思うんです。生きることとは、必ずしも、その対価をもとめることにあるのではなく、本能に任せて生きる、というだけにあるのではなく、自分自身が、今ここに「生きて在る」ことを、何かを助け支えていくことで、自分自身を痕跡づけていくところにこそ、あるんだと思うんです。
だから、自分がどんなに否定されようと、自分がどんなに落ち込もうと、それは、逆に生きる意味を自分が示せる試練となるのだと思うのです。ともかく、どんなことがあろうと、今ここに生きている、ということはそれだけでも素晴らしいのだということなのでしょう。
「苦しみにも意味がある」というのは、決して負け惜しみではなく、紛れもない真実なんだ、という思いを強くいたしました。
前のページ記に戻る