障礙を取り除く神
映画「エレファントマン」の主人公モデルとなった人の病気
研究テーマ
なぜ生命観に興味を持ったか?
インドの何に惹かれたか?
私がインドを面白いと感じるところ
インドの生命観−人間中心の世界観からの超越−
ハンドル :ガネーシャ
性別 :男
血液型 :B
生年月日 :23,January,1968
住んでる所:地球のどこか
由来は、大きくわけて二つある。
「象頭人身の神ガネーシャの別名」−ヴィグネーシュヴァラ(障礙を取り除く神)
と映画にもなった「エレファントマンと呼ばれた男性の病名」のこの二つに依っています。ついでにいえば、私の専攻分野が、インド哲学だったということも理由の一つに挙げてもよいかも。
ガネーシャとは日本では聖天という名で知られ、首から上が象の頭、首から下が人間の姿をしたの神です。原意は「ガナ(「群衆」の意)とイーシャ(「支配者」の意)の結合語であり、意訳すれば「衆主」です。(ガネーシャの画像へ)
神話によれば, その父はをインドの三大神の一人シヴァ(Siva)、その母は、女神パールヴァティ(parvati)(「山の女神」の意)(ガネーシャとその両親の画像へ)。現代のインドにおいても、商売繁盛・幸運の神として人気を保つ神格だそうです。
ガネーシャは、またの名を「ヴィグネーシュヴァラ(vignesvara)」ともいい、その意味は「vighana(「障礙」の意)と「isvara(「自在主」の意)の結合語であり、障礙を除く神としても知られる。(参考:『ヒンドウ教』
評論社))
※ガネーシャに関するサイト
グッズなど
●アジア雑貨&ガネーシャ専門店「がねーしゃ」
ガネーシャ神に関する解説サイト
●ガネーシャ その象徴と存在(GANESH, symbol and presence) [英語サイト]
映画「エレファントマン」をご存知の人も多いと思います。あの映画の話が実話に基づいていることを知る人は少ないのでは?。
「19世紀イギリスに実在したJoseph Merrickという人物は、顔面および四肢に重度の変形があるがために「エレファントマン」と呼ばれた。彼はその容貌ゆえ数奇な運命をたどり、後に彼の生涯は劇や映画として紹介された」(Molecular Medicine Vol.34 No.6 1997)。
彼のかかっていた病気は、私の病気と同じ、「NF(神経線維腫症)」であるとされ、一時期、この病気を「エレファントマン病」と呼ばれたとのことです。しかし、その後の詳細な検証によって、MerrickはNFではなくプロテウス症候群であることが分かった(※このことについての解説)ので、結果的には私の罹った病気とは同じではなかったけれども、象頭人身の神ガネーシャとエレファントマンのアナロジーからが、この名前を名乗ることにしました。
インドの哲学について勉強しています。テーマは「生命観」
現在は、ヴリクシャ・アーユルヴェーダ(Vrkshayurveda)(インドにおける植物科学)について研究しています。そのうちこのホームページでも紹介するかも。
ちょうど私が高校2年の時でした。当時、授業中、突如気を失うことがあって、病院で検査したところ、大きな脳腫瘍が見つかり、手術を受けたのです。その時、病床にいながら、「生かされている自分」また、逆に、「誰の支えになっている自分」に気付いたんです。
「人生、無駄なことだなんて一つとして無い」。
そのことに気付いたあの時の感動は、今でも忘れられない思い出です。
もともと、「生きているとはどういうことなのか?」ということを考えてた自分にとって、こうして病気にかかりながらも生かされている。ということの意味を模索したいと考えるようになったのです。
結論からいうと、インドについて学ぶことで根源的な何かがつかめるような気がしたのです。きっかけとなったのは、森本哲郎 『ゆたかさへの旅』(角川文庫)という本でした。元々、インドという国に対して、
・仏教の教祖、釈尊の生まれた国。カースト差別が強く残り、貧富の差の激しい国
というくらいのイメージしかなかったのですが、上記の本を読んで初めて、インドには、西洋にはない独自の哲学があるらしい、ということを知りました。その時以来です。
私がインドに対して魅力を感じたのは、何千年もの昔より、社会の中で差別が残しながら、一方では、仏教の唱える「不殺生」や、マハートマー・ガーンディーの「非暴力」といった理想主義が生まれ、この厳しい現実と、日常に根差した理想とが同居している不思議さでした。
お釈迦さまの解脱とか、全く意味があるのかどうか 不可解な難行苦行とか。世俗を越えて超俗的ですよね。摩訶不思議、神秘の国インドとか言われるゆえんなのですが、しかしそれだけでないからこそ面白いと思うのです。
なぜインドでは難行苦行が、あそこまで厳しく 行われるのか?それはそこまで思わせるだけの逆の世界(快楽の 世界)が存在するからではないだろうか?。例えば、お釈迦さんにしても出家する前は彼の父の計らいで、放蕩の限りを尽くした形跡があるし、あそこまで女嫌いになったのも、やはり出家前 のトラウマではないかとも思うわけです(笑)。
だから難行苦行というのは、ただただ「禁欲」志向なのではなく、 それだけ強く「欲望を否定する」ことを必要とするからこそ必要となるのでは?と私は思います。
インドの生命観の特徴は、人間を中心におかず、あくまで多くの動植物と同列に置くところにあります。
それはただ単に理念としてのみならず、たとえばインドの伝統医学、アーユルヴェーダにも、その治療対象は人間にとどまらず、植物にも動物にも、人間に対する治療論と同じ原理が使われます。また、輪廻転生についても、輪廻は人間という枠組みを越えて、生きとし生けるもの全てが輪廻する。種を越えて輪廻流転を繰り返すということは、人間の枠組みを越えた平等観念の現われのようにも思うのです。確かに、輪廻思想が差別の道具として使われてきた事実はあります。しかし、それは輪廻思想に非があるのではなく、差別の道具に使おうとしてしまう人間の弱さに基づくのではないでしょうか。
生命の平等といえば、うるわしい理想のようにも思えますが、実際には、自然界は食物連鎖によって成り立っているわけで、お互いに食い合う存在という次元においても平等だということでもあります。
インドの生命観は、一人一人の心のうちにそうした現実を踏まえながら共存する道を示してくれる可能性がいっぱいあると思う。
輝かしい理想は、実に凄惨な現実からこそ生まれるのではないでしょうか?人生とは、いつも順風満帆とか限らない。楽しいこともあるけど、病気や障礙、事故にも出会うのも人生です。それをバネにして自らの飛躍とする、そんな可能性がある、「逆境における 生命観」を、私は追求していきたいと思います。