『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』 ヒュー・G・ギャラファーを読みました。そこで気づいた感想を述べてみます。

  ●慢性疾患に対する医療者のフラストレーション
 実におぞましい事実が、つづられています。そして、優生思想というものが、横行する根柢には、「慢性疾患(不治の病)」に対して医療者が感じる、フラストレーション。つまり、どんなに施療しようとも、完治することがない、医学、科学によって治療(あくまで身体面に対する治療ですが)することのの限界を感じざるをえない、そういう例を見せる、障害者や高齢者の治療から生じるストレスということがあるようです。

 で、注目すべきなのは、このストレスというのは必ずしも、その対する症状「生きられないほどの困難」を意味するわけでもなさそうなのです。
 つまり、医学的に「治せない」というところにストレスを生む理由がある。

 私は、人生とは、身体的欠損の有無で幸不幸が決まるとは思わないのですが、身体的治療に限定された視点にたつと、「慢性疾患」とは、絶望的な医の敗北として受けとめられてしまうわけです。
 現在、行なわれている遺伝子診断・出生前検査においては、確かに、生後の医療方針決定を前提にする検査もあるので、一概には言えませんが、キャリア遺伝子を取り除こうという動きは、以上のような、慢性疾患に対する、医療側のストレスが形を変え、完治不能な病気の遺伝子は、発見可能であれば、その遺伝子を持って生まれてくるこどもは、なるべく回避しよう。そういうことで治せない病気を排除しよう、ということではないかと思うのです。

 医療の発達は、確かに、いままでなら助からないはずの、遺伝病の子を生かすことも実現したのですが、逆に、「治療不能であり、予測可能な」遺伝子疾患について、それが、現状において治癒不可能であれば、積極的に回避しよう、つまり、「現在の医療技術のレベル」を規準に「生まれてくる生命」を選別しよう、そういうことなのではないか?と思うのです。

 ●現在の医療技術を規準にして「選別」してよいのか?
 これは、でも主客転倒なのではないでしょうか?技術は助けるためにあるのであって、殺すためにあるのではないはずです。そして、技術を規準とした出世前検査は、キャリア遺伝子のの発見できる、遺伝病と、それが難しい遺伝病の胎児の間に格差をつくるし、あらたな不公平を生むのではないでしょうか?医療技術の発展は、単に、今現在の医療技術水準であるに過ぎないのに、そのような不確定な規準により生命を「選別」することの危険性です。
 仮に、「選別」を認めるとしても、その規準として「現在の医療水準」を絶対規準にすることは、「医療倫理」として書き記すことは困難です。

  1.技術的に可能だからゆるされるか
  2.技術的に使用することの倫理規範

 これは、別問題であるということ。
 今、現在問題になってる「遺伝子検査」というのは、2の部分において、一貫性があまりない、どこまでが歯止めということが分からない状態というところにあるんだと思う。やはり、「遺伝子排除」を仮に認めるにせよ、全ての人にとって、理解しえることばを、紡いでいくべきと思うんです。単に現在の技術水準というあやふやなものではなく、倫理的に一貫性をもった、規準ですね。万人に共通する基準といものは見つからないとしても、それを求めつづけていくことは、必要ではないか、割り切ることよりも悩むことこそが大事なのだと思います。

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