『イカロスの翼』という神話というか寓話を御存知でしょうか?空を飛んで神の怒りを買い、墜落した青年の話といえば、知っている方も多いと思います。名匠ダイダロスと、その息子イカロスは、ダイダロスにより作られた、「空飛ぶ翼」を足につけ、ある場所まで移動することにしました。そのとき、父親は息子に注意を与えます。「高過ぎず低過ぎず飛べ」と。しかし空に舞い上がって息子は、文字通り「舞い上がって」しまい、天に近づきすぎて、天の怒りを買い、遂には彼の足に付けられたロウで作られた足の翼が熱で溶かされ墜落してしまった悲劇です。しかし、父親は、文字通り「高過ぎず低過ぎず」に飛び、無事に移動できたのです。人間は、たしかに本能だけで生きているのでもなく、かといって、完全な神の高見に至ることもできない、いわば、「天(神)」と「地(獣)」の中間に位置する存在だという寓意でしょうか?

 長い前置きになりました。この『優生学と人間社会」という本は、過去の欧米と日本での「優生学」の歴史の通覧です。腰巻に「優生学はナチズム?」という挑発的な文句が 掲げられてます。読めばそうではないと分かるのですが、この本は、ナチスの所業を糾弾することを目的とする書物ではありません。書かれてある内容は、優生学の歴史が、ナチスの悪夢であるとして断罪されるのではなく、イギリスやアメリカそれから北欧など比較的「自由」であり、あるいは「平等」であると一般に信じられている社会においてさえも、というか、そうであるからこそ、根強い優生的思考があったのだということをこの本は明らかにしてくれます。


 結果的に、それは現在の価値観からすると障害者に対する差別の歴史ともなるのですが、当時としては、優生思想は、善意からくるものでもあったのです。そして「人類改造」という途方もない夢の挫折の歴史でもあったわけです。この本は、優生学の発想その多くが、その時々の「善意」からくるものであったこと、その社会の主流を占めていた多くの人たちによって支持されていたことを明らかにします。そういったことがこの本には書かれてあります。

 いま私が取り組んでいる欠格条項も、その成り立ちは、元々は「善意」に発していたものであったのかもしれません。「障害者なのだからってムリすることないよ」、みたいな…。

この本のp230で

「障害者に対する差別と偏見を助長するような用語、資格制度における欠格条項の扱いの見直しを行う」という、「障害者プラン」(1995)の文言が引用されていました。

優生学も、欠格条項の問題も自分がどうするかは自分の意志で決める、という「自己決定権」の 範囲をどこに定めるのか?という問題なのかもしれません。

障害者に対する見方も、時代時代により変化してきています。ヒトゲノムの解読など、これからの医療のありかたなどについても 終章でとりあげられているし、とても参考になると思います、

この先、どのような社会になっていくのか?予測することはできます。それにもとづき対策を立てることもできます。しかし、未来のことって、思い通りには人間の思惑通りに支配することはできない。優生学の挫折の歴史は、そんな未来についての分からなさについて語ってくれているのかもしれません。

 「高過ぎず低過ぎず中間をいく」ということも、案外に難しいことなのかもしれません。


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